吉本隆明『老いの越え方』(2009年、朝日文庫)
本書は、吉本隆明による自らの老いの観察記録である。年、彼自身「老いる」ことに対して関心が高まったようで、本書を刊行した2009年(82歳)以前にも、2000年(76歳)に『<老い>の現在進行形』(春秋社)、2002年(78歳)に『老いの流儀』(NHK出版)を刊行している。本書は、82歳時点で老いや高齢期の生活に対する吉本隆明へのインタビューの形式を取って綴られている。
老いについて吉本隆明が語るとこのようになる。
「身体の運動性がにぶくなってくるとともに、精神現象が身体に対して内向してくる。(…)そして、内向の程度が精神の動きの半分以上になったとき、老齢の自意識が始まるのだという気がする」(p.306)
「老人になると医者が言うように運動性は鈍くなるし足腰は痛くなる。それは確かにそうです。だけどそれは一遍の理解の仕方ですね。(…)確かに感覚器官や運動器官は鈍くなります。そも、鈍くなったことを別な意味で言うと、何かしようと思ったということと実際にするということの分離が大きくなってきているという特性なんですよ。だから、老人というのは「超人間」と言ったほうがいいのです。」(p.37)
赤瀬川源平は、老化に伴い現れる認知、身体の諸症状を「老人力」と表現したが、吉本隆明はそれを「超人間」と表現する。
本書を読むと、明らかに吉本隆明は、自分の老化を面白がっている様子が窺える。老いとともに、自らの目が見えづらくなり、聞こえが低下する様子を外側にいる評論家吉本隆明に語らせている。吉本隆明を観察しているメタ吉本隆明がいる。
インタビューの内容は多岐に渡る。身体について、社会について、思想について、死について。個々に語られる答えの中に吉本隆明なりの老年学的知が盛り込まれるところが面白い。
(老人になると、頑固で、利己的で、愚痴っぽくて、疑い深くなる、という傾向は)「みんな当たってるけれども、それに対する反省力というものが若いときよりも増大していいます」(p.77)
(老人がぼんやりしている、というのは実は間違いで)「ぼんやりしていると理解すると、お年寄り全般を覆う考え方にはなりません。いろんなことを考えたり、妄想したり、考えが飛んだりしながらやっていると理解するほうが、全部を覆えます。」(p1.57)
老いは必ず誰にでも否応なく訪れるものである。その意味において、誰もが高齢身になれば、若者世代が知り得ない老いを実体験し、人に対して語る資格を得ることが出来る。老いることは、隠すべき事でも、恥じるべきことではない。社会がより高齢期に対する理解を得るためにも、本書のようなジェロントロジー体験学の試みが広く行われることを望みたい。